たかのプロ野球雑談記

野球が好きな大学生です。野球メインでたまに漫画の話もします。

全ての野手の憧れ〜 トリプルスリー(平成前半)〜

「トリプルスリー」それは、打率.300、30本塁打、30盗塁以上の成績を残すことで、80年の球史の中でも達成した選手は10人しかいない。今回はその中でも、平成の打者に限定して今回は前半3人を紹介する。

 

1.秋山幸二(1989年、西武ライオンズ)

 

打率.301、31本、31盗塁

まずは、福岡ソフトバンクホークス の前監督で「メジャーに一番近い男」とも呼ばれた秋山幸二。三振が多いものの、落合博満が「現役で唯一」と認めるアーチストで、1985年から1993年までは9年連続で30本塁打以上を達成。1985年での23歳での40本塁打は、王貞治と並ぶ最年少記録であった。

西武では、清原和博デストラーデとともに「AKD砲」を確立。1994年にホークスにトレードで移籍し、常勝軍団の礎を築くこととなる。

1986年の広島との日本シリーズ、唯一の第8戦で初披露した「バック宙ホームイン」はとても有名だ。

ホークス 監督就任後も、フリー打撃で柵越えを連発する、握力測定で現役選手を上回る記録を残す、エイプリルフールにソフトバンク公式Twitterが秋山の現役復帰を発表するなど、エピソードに事欠かない。

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2.野村謙二郎(1995年、広島東洋カープ)

 

打率.315、32本、30盗塁

平成で次にトリプルスリーを達成したのは、柳田悠岐も少年時に憧れた野村謙二郎である。現役時に17年、監督時に5年と広島カープ一筋の選手。身長176cm、体重75kgと本来はスラッガータイプのバッターでは無い。実際に、30本塁打はおろか、20本塁打以上を達成するのも1995年の一度だけである。

現役時は主に遊撃手、1番を務め、それぞれ3度最多安打盗塁王に輝く。初球から積極的に振っていくスタイルであった。

2010年から11年連続でBクラスに低迷していた広島カープの監督に就任。5年の任期の中でリーグ優勝は果たせなかったが、彼の育成した選手らが2016年からの3連覇に貢献することとなる。

 

3.金本知憲(2000年、広島東洋カープ)

 

打率.315、30本、30盗塁

広島在籍時の、1492試合連続フルイニング出場の世界記録も持つ「鉄人」こと金本知憲もこの大記録を達成する。

四球数リーグ一位を6度と選球眼に優れた選手。意外にも、リーグ2位、3位は多いものの主要打撃タイトルを獲れたのは2004年の打点王の一度のみ。

 

広陵高校在籍時、法政大学野球部のセレクションを受けるつもりが、監督が誤った日程を伝えた為に受けるつもりができず、浪人することとなる。一浪ののち、監督の「浪人も推薦で大丈夫」との言葉を信じ、中央大学野球部のセレクションの推薦を受けるが、実際には浪人の推薦は無く不合格に。つまり、2度騙されることとなる。のちに東北福祉大学に一般入学する。ここでのチームメイトに、プロでも活躍する佐々木主浩矢野輝弘斎藤隆らがいた。

 

広島入団後、3年目の1994年からレギュラーに定着していく。1997年には開幕からの35試合連続出塁を達成し、当時のセリーグ記録を更新。(2019年に坂本勇人が開幕からの36試合連続出塁を達成し、記録更新)

1999年7月21日の阪神戦より、世界記録となる連続試合フルイニング出場が始まる。2000年にシーズン最終戦で30本塁打目を放ち、トリプルスリーを達成する。2002年オフFA権を行使して阪神タイガースに移籍。

 

阪神入団初年の2003年は、球団の18年ぶりのリーグ制覇に貢献。2004年8月1日には連続試合フルイニング出場の日本新記録を樹立する。2006年4月9日には904試合の連続試合フルイニング出場の世界記録を更新することとなる。

2010年4月18日にオープン戦での怪我による肩の不調でスタメンを外れ、連続試合フルイニング出場の世界記録は1492試合でとまる。この年はスタメン出場しなくとも代打で試合に出続け、全試合出場にも関わらず規定打席未到達というNPB初の珍記録が生まれた。

ちなみにNPBの連続試合フルイニング出場の2位は秋山翔吾による739試合で金本の半分にも満たないことから金本の凄さがわかるだろう。

 

以上が平静にトリプルスリーを達成した3人の選手であった。後半では残る3人を紹介していく。

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