たかのプロ野球雑談記

野球が好きな大学生です。野球メインでたまに漫画の話もします。

2回のボビー・マジック(変装)

334や白い霧事件などで知られる、2005年日本シリーズ。日本一に輝いたのは千葉ロッテマリーンズで、チームを率いたのは「ボビーマジック」の采配で有名なボビー・バレンタイン監督でした。

 

そんなバレンタイン監督は、実はメジャーでも監督を務めたことのある人物です。

今回紹介するのはそんなバレンタインさんのMLB監督時代の面白いエピソード、「バレンタイン変装事件」です。

 

1999年6月9日のブルージェイズ戦、ニューヨーク・メッツのバレンタイン監督は延長12回に審判から退場を宣告されてしまいます。盗塁を刺すためにベースから離れて捕球した捕手のプレーが、妨害行為だと判断された事に激しく抗議した為でした。

それでも、バレンタイン監督はアイブラックで作った口髭とサングラスで変装し、ベンチに戻ってきます。延長14回にメッツはサヨナラで勝利し、バレンタインもチームの歓喜の輪に加わりました。

 

この時の変装の様子は動画に収められており、バラエティ番組などで度々取り上げられています。

 

試合後に記者から変装のことを尋ねられたバレンタイン監督は「自分に似ていない誰かがベンチにいたんだろう」と答えたといいます(笑)

 

ちなみに、この事件によってバレンタイン監督は2試合の出場停止と5000ドルの罰金を課されました。

 

実はバレンタイン監督が変装で試合に潜入しようとしたのは、これが初めてではありませんでした。レンジャーズの監督だった1989年に出場停止処分を受けた際、バレンタイン監督はレフトスタンドから試合を観戦すべく、観客席に忍び込もうとします。

この際の格好は、黒髪をパウダーで白くし、口髭をつけ、帽子を被りTシャツを着るというものでした。しかしながら、この時は球場に入ってすぐファンに見つかってしまい、席まで行くことができなかったといいます。

 

そんなお茶目なバレンタイン監督でした。

 

 

野球ファンは1度は見るべきYouTubeの野球動画7選

今回はプロ野球ファンなら一度は見ておくべき、プロ野球に関する動画を7選紹介します。

有名なものもちょっとマイナーなものも両方紹介していきます。

 

 

 

1.江夏の9連続奪三振

 

1971年オールスターでの記録。阪神所属の江夏豊は全セ代表として先発で登板します。

 

1回裏に有藤道世基満男長池徳二から連続奪三振

2回裏に江藤慎一土井正博東田正義から連続奪三振

3回裏に坂本敏三、岡村浩二加藤秀司から連続奪三振

 

なんとパ・リーグ代表の先発9人の打者から連続で奪三振を記録したのでした。オールスターのルールとして、原則1人の投手は3回までしか投げられないので9連続奪三振は達成しうる最高の記録となります。

また、この記録に惜しくも届かなかったのが1984年オールスターでの江川卓の記録。彼は8連続奪三振を記録したのでした。

 

 

2.松永浩美の抗議のバット投げ

 

初めてFA移籍した選手としても有名な松永浩美。そんな松永が今もファンの間に継がれる、あるプレーを魅せたのが1988年10月23日のロッテ戦・ダブルヘッダーの第二戦でのことです。

 

当時松永は阪急に所属。この年松永と首位打者を争っていたのがロッテの高沢秀昭でした。

シーズン最終の3連戦となったロッテとのカードで、ロッテ投手は松永を敬遠しまともに勝負しません。もちろん、チームメイトである高沢にタイトルを獲得させる為です。

 

これに対し抗議したのが3連戦が行われた西宮球場の阪急ファン。この時代に詳しいプロ野球ファンならお気づきかも知れませんが、この年は阪急の球団身売りが発表された年。つまりこの試合が阪急としての最後の試合となるわけです。

 

そんな大切な試合で主力打者との勝負を避けられたら、不満を抱くのも理解できます。

結局松永はダブルヘッダー第二戦の第4打席終了時点で11打席連続四球となりました。

 

そして迎えた8回裏の第5打席。無死1、2塁の場面でも当然相手は敬遠を選びます。その時に松永が取ったのが上記の動画の行動。阪急ファンはこれに対し大歓声を送ります。

 

実は、松永がバット投げを敢行したのは、ロッテへの抗議としてではなく、阪急ファンが阪急最後の試合で汚い野次を発するのをやめさせる為だったといいます。

 

 

3.新庄剛志のホームスチール

2022年シーズンから日本ハムの監督に就任した新庄剛志

2004年にメジャーから日本ハムに移籍すると日本ハム、いや、パ・リーグ全体を盛り上げる為に様々なパフォーマンスを行います。

 

有名なものとして、札幌ドーム天井からのゴンドラでの登場や、ハーレーに乗っての入場などがありました。

 

そんな新庄は球宴史上初のホームスチールも記録します。

是非注目してみて頂きたいのが、この動画に登場する新庄以外のビッグネームの数々。

 

全セバッテリーは阪神福原忍と現・阪神監督の矢野輝弘

三塁コーチボックスには、この年三冠王となる松中信彦

バットを叩いて喜んでいたのが後年、NPB最年長試合出場を記録することとなる山本昌

隣には、この年日本プロ野球選手会長として選手陣を率いた古田敦也

次の回のセ・リーグの打者がクリーンナップのグレッグ・ラロッカ小久保裕紀(当時は巨人)

タフィ・ローズ

 

解説席には当時の球界最強キャッチャー・城島健司

ベンチに戻る新庄を出迎えたのが全パ監督の王貞治

そして打席には「ガッツ」こと小笠原道大。さらに日ハム時代の小笠原の応援歌も流れていました。

 

2020年オフには現役復帰を目指し、トライアウトに参加した事も記憶に新しいですね。

この時はまさか翌年のオフに新庄が監督に就任する事になるとは、夢にも思いませんでした笑

 

4.代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン

 

2004年限りで球団としては消滅している、大阪近鉄バファローズ

そんな近鉄の最後に優勝となったのは2001年のこと。

その優勝は、世界唯一の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランによって決まりました。

このホームランを打ったのは阪神から移籍してきた北川博敏

 

オリックスに移籍後、北川の応援歌には「奇跡を呼ぶ男」というフレーズが含まれました。

 

5.亀井サヨナラホームラン

 

2017年6月18日のロッテ戦、12回表終了時点で3-5と2点ビハインドの巨人。

なんとか1死から坂本の安打で1点差まで迫った巨人でしたが、4番マギーがこの試合3度目の敬遠をされてしまいます。

 

次の打者は、前回、前々回の打席で凡退してしまっている亀井善行選手。

亀井からすると非常に屈辱的な前の打者の3連続敬遠。

舐められた事に対する怒りをバットに込め、ロッテの投手、大嶺の3球目を振り抜きます。

 

打った瞬間、その感触を確認した亀井はガッツポーズ。打球はライトスタンドへ。

劇的なサヨナラ3ランホームランとなりました。

 

ヒーローインタビューでは

「本当に心が折れていたんで、奇跡としか言いようがない。これで最後ダメだったら命を取られると思って、そのくらいの気持ちでいきました。」

と、涙ながら打席での心境を語りました。

 

 

6.井口資仁引退試合

 

ダイエー、ロッテで日本一に、ホワイトソックスフィリーズで世界一に輝いている現ロッテ監督の井口資仁

 

2017年9月24日、この日は井口の引退試合でした。

功労者の引退試合ということもあり、ファンもいつも以上に勝ちを望んでいましたが、9回表終了時点で1-3と2点ビハインド。

9回裏ノーアウト1塁から打席には井口が入ります。

 

現役最後となるであろう打席をファンが見守るなか、日本ハムの守護神・増井浩俊(現オリックス)の4球目を強振。打球はロッテファンの待つスタンドへ。

 

なんと、井口の日米通算295本目の本塁打は劇的な同点2ランとなったのでした。

 

東都大学通算最多本塁打など、プロ入り前から様々な伝説作ってきた井口ですが、

彼は引退試合でも伝説を残しました。

そんな井口資仁さん。今年こそはロッテを優勝に導いて、歴史に名を刻んで欲しいものです。

 

7.バレンティン56号

2013年9月15日、この日の試合前の時点で、ヤクルトのウラディミール・バレンティン選手は、王貞治さん、タフィ・ローズアレックス・カブレラと並び55本塁打を記録していました。

 

1回裏に阪神榎田大樹投手からシーズン56号目の本塁打を記録します。49年ぶりのシーズン本塁打数更新でした。

 

この時の実況が以下。

「野球ファンの夢を乗せた白球が、神宮の夜空を切り裂いた。歴史的一瞬です。」

 

ちなみにバレンティンはこの日、57号本塁打も記録しています。

バレンティンは最終的にシーズン60本塁打を記録し、この記録はもちろん今も破られていません。

野球知識検定を受けて来た

先日、東京にある大正大学と言うところで人生で初めて野球知識検定を受験して来ました。
野球知識検定とは、プロ野球だけで無く、高校野球大学野球、社会人野球、メジャーなどの海外のリーグ等、野球に関するものならなんでもありの問題が出題される検定試験です。
www.89kentei.com

試験会場は東京、大阪の2箇所で、6月、12月の年に2度行われています。


区分は6級から1級まであり、下の級に合格したら次の級を受験できると言う仕組みになっています。
1級はとても難しく、今までに1桁の人数しか合格していないそうです。


今回私は5、6級(5、6級だけ同一の問題で100問中80問以上正解で6級に、90問以上で5級に合格)を受けました。
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↑問題集は野球知識検定の公式サイトから購入出来ます。

5、6級の試験でもちょこちょこ難しい問題がありましたね。私が難しいと感じたのが次の問題です。

Q.長嶋茂雄国民栄誉賞受賞の授与式の後に、始球式で捕手を務めた人物は?


(内容は同じですが、問題文は本番のものとは違います。答えは記事の最後に書いておきます。因みに試験問題の冊子は試験終了時に回収されます。)

実は5、6級の問題は問題集から出るのですが、問題集とは選択肢が違ったり、解説文にあったことを尋ねられたりしました。


検定終了後にはプロ野球OBによるトークショーが行われます。
この試験の醍醐味がなんといってもこのトークショー。今回は東京会場に中尾孝義さんが、大阪会場に米田哲也さんがいらっしゃいます。
過去には江夏豊さん、中西太さん、高木守道さん、北別府学さん、山田久志さんなども来られたそうです。

トークショーでは、OB選手への質問コーナーやクイズ大会が行われます。質問するか、クイズに正解するかでサインボールが貰えます!
私は東京会場で受験したので、中尾さんのトークショーを拝聴させて頂きました。


当時の中尾さんの中日入団の経緯や、西本選手らとのトレードで巨人に移籍した時の心境など、とても興味深い話ばかりでした。
中尾さんが現役時代に一番すごいと思ったピッチャーは江川卓選手で、バッターはバースだそうです笑

私も中尾さんに質問して、サインボールを頂きました!
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次回の試験は6月にあります。
野球の知識に自信がある方、野球が大好きな方、是非受験してみてください!!

合格発表が1月末にあるので楽しみです!


問題の答えは原辰徳さんです。因みに、この打席で審判を務められたのは安倍晋三さんです笑

球場初本塁打まとめ! パ・リーグ編

 

球場毎の初本塁打を気になって調べてみました。

今回は現在パ・リーグ球団が本拠地として使用している6球場を紹介します。

オープン戦を含まない、公式戦での記録を優先的に紹介します。

 

 

1.県営宮城球場(楽天生命パーク)

 

開場は1950年の5月5日。5月27日の球場完成前に開場したらしいです。

 

柿落としとなったのは、毎日対南海と毎日対大映ダブルヘッダーでした。

本塁打ダブルヘッダーの第2戦で、毎日の別当薫大映林義一から記録しています。

 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E5%2588%25A5%25E5%25BD%2593%25E8%2596%25AB

画像はWikipediaより引用

 

別当薫はこの年、打率.335、43本塁打、105打点を記録。パ・リーグ初の本塁打王打点王となり、同じくリーグ初となるMVPも受賞しています。

さらにこの年は盗塁も34個記録しており、岩本義行(松竹打線)と共にNPB史上初のトリプルスリー達成者となりました。

 

話は逸れますが、もう1人の初代トリプルスリー達成者である岩本選手の所属していた、松竹ロビンスはこの年「水爆打線」と呼ばれ、小鶴誠選手が歴代最多のシーズン161打点を記録しています。



2.大阪ドーム(京セラドーム大阪)

 

開場は1997年の3月1日。開場当初は、大阪近鉄バファローズが本拠地としていました。

 

本塁打が生まれたのは、開幕戦となる4月8日の近鉄対ロッテ戦。

近鉄鈴木貴久選手がロッテの榎康弘選手から記録しています。

 

鈴木選手は近鉄一筋で16年在籍し192本塁打を放っている、いてまえ打線の顔のような選手でした。

2004年の5月に40才の若さで亡くなられています。

 

大阪ドームは、2004年の近鉄オリックスの合併後にオリックスの本拠地となりました。



3.札幌ドーム

 

札幌ドームの開場は2001年の6月2日。

プロ野球の初試合となったのは、6月26日の巨人対中日戦でした。

 

記念すべき初本塁打を放ったのは、今でも現役の中日・福留孝介選手。

先頭打者の福留選手は、1回表に巨人のダレル・メイ選手の1球目を本塁打にします。

 

さらに、福留選手の背番号が1であったことから

「背番号1の福留孝介選手が、1回表に1番打者として球場第1球目を球場第1号本塁打

と、「1」尽くしの記録となっています。

 

この本塁打の落下地点は、右中間スタンドの111通路20列147番の席で記念プレートが座席の床に飾られています。

www.sapporo-dome.co.jp

「あれ、日本ハムは?」と思われた方もいらっしゃるかも知れませんが、この時はまだ日ハムは北海道に移転しておらず、巨人と共に東京ドームを本拠地としていました。

 

日本ハムの北海道移籍後の札幌ドーム初本塁打は、2004年4月3日の西武戦で日ハムの小田智之選手が記録しています。

こちらはライト側の113通路25列付近に、記念プレートが設置されているようです。



4.福岡ドーム

 

現在は「福岡PayPayドーム」という大変ユニークな球場名となっています。公式球団歌の「いざゆけ若鷹軍団」中にもその名は登場しています。

歌詞は↓

https://www.joysound.com/web/search/song/830896

3番に入る前で確認できます。

 

そんな福岡ドームが開場したのは1993年4月2日。1992年シーズンまでは、ホークスは平和台球場を本拠地としていました。



公式戦での初本塁打は、1994年4月18日の試合で近鉄ブライアント選手がホークスの若田部健一選手から記録しています。

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【伝説の助っ人インタビュー】ブライアント 「ワタナベから打ったHRは忘れない」 | 野球コラム - 週刊ベースボールONLINE

画像は引用

 

ブライアント選手といえば、仮面ライダーV3の「戦え!仮面ライダーV3」が原曲の異様にかっこいい応援歌が印象にあります。

 

オープン戦も含めると、球場初本塁打は4月2日のロッテ対日本ハムのオープン戦で日ハムのリック・シュー選手が記録しているようです。



5.西武ライオンズ球場(現・メットライフドーム)

 

公式戦初の本塁打は、1979年4月14日の西武対日本ハムの試合で生まれます。

本塁打を放ったのは2021年限りでホークスの一軍打撃コーチを退団した、立花義家さん。

 

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立花義家 満塁で強さを発揮した左のスラッガー/プロ野球1980年代の名選手 | 野球コラム - 週刊ベースボールONLINE

画像は上記サイトより引用

 

日ハムのエースで、1981年に江夏豊とのトレードで広島に移籍する事になる高橋直樹選手から記録します。

 

ちなみに、これが立花さんのプロ入り後初本塁打でもあったそうです。

 

立花さんは2022年から、楽天の一軍打撃コーチに就任することが決定しています。

楽天、ホークスの他に、オリックス、西武、ロッテでコーチを務めていた為、日ハム以外のパ・リーグの5球団にコーチとして所属していたことになります。

 

ついでにドーム球場化してからの初本塁打も見ていきましょう。

1997年オフから西武球場ドーム化の工事が始まり、1999年にドーム化が完了しています。

 

そして初本塁打は、4月13日の近鉄戦で、近鉄大村直之選手が西武の新谷博選手から記録しています。

大村選手といえば、近鉄消滅はダイエーオリックスでプレーし通算1865安打を記録した選手です。

 

西武の選手の初本塁打は、同試合で田辺徳雄選手が高村祐選手から記録した物のようです。

 

オープン戦も含んだドーム化後の初本塁打は、3月20日の西武対巨人のオープン戦で松井秀喜選手が記録しています。




6.千葉マリンスタジアム(ZOZOマリンスタジアム)

 

開場は1990年3月24日。

公式戦初本塁打は1991年5月25日のヤクルト、中日によって行われた球場初の公式戦で

生まれます。

ヤクルトの荒井幸雄選手が中日の小松辰雄選手から記録しました。

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https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190523-12

画像は引用

 

もっとも、この時ロッテはまだ千葉に移籍しておらず、川崎球場を本拠地としていました。

 

ロッテがマリンスタジアムで行った最初の試合としては、同年7月31日の西武戦が挙げられるのですが、この試合では本塁打は生まれませんでした。

 

1992年4月4日の開幕戦がロッテの千葉移籍後初のマリンスタジアムでの試合となるのですが、この試合でも本塁打は生まれません。

 

待望のロッテ及びパ・リーグ球団のマリンスタジアム第1号本塁打はが生まれたのは4月7日の対ダイエー戦。

ロッテのマイク・ディアズ選手がダイエーのL.タネル選手から記録しています。

 

この試合はロッテが5-1で勝利を挙げます。

ロッテ先発の牛島和彦投手は、血行障害の影響で1990年、91年に勝利が無かった為、この試合での勝利が1989年以来924日ぶりとなりました。

 

ディアズ選手といえば、西武の清原選手にヘッドロックをかけた事が有名です。

↑こちらの動画、打席に入ってるのが清原和博選手、マウンド上の選手がロッテの平沼定晴選手です。清原選手のヒップアタック後、ホームベース付近で清原にヘッドロックを掛けている大柄の選手がディアズ選手です。

 

オープン戦も含めた球場初本塁打は、1990年3月24日の巨人対ロッテのオープン戦で記録されています。

記念すべき本塁打を放ったのは、後に「幕張のファンタジスタ」と呼ばれるようになる、ロッテの初芝清選手。

このオープン戦当初はロッテの千葉移籍は決定しておらず、試合も巨人主催でした。



以上、現在のパ・リーグ本拠地の初本塁打まとめでした。

中日に所属したサイ・ヤング賞初代受賞者

1962年の1シーズンのみ中日に在籍していたドン・ニューカム選手。
日本での登録名はニックネームでもある「ニューク」でした。

そんな彼ですが、なんとサイ・ヤング賞の初代受賞者だったのです。
サイ・ヤング賞は意外にも日本の沢村賞よりも歴史は新しく、1956年に制定されています。(沢村賞は1947年)

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Wikipediaより引用

さらに驚くことに、ニューカム選手は外野手として中日に入団。81試合に出場し、打率.262、12本塁打を記録したのでした。

また、中日では1試合のみ投手として登板しています。

MLBでの通算成績は149勝90敗、防御率は3.56。
打者として代打で出場する事もあったそうで、MLBでの通算打撃成績は988打席で打率.271、238安打でした。

中日に在籍していた、初代サイ・ヤング賞受賞者、ドン・ニューカム選手でした。

阪神ファンあるある前編

今回は今シーズン勢いに乗っている阪神について、阪神ファンあるあるを見ていきたいと思います。早速いきましょう。

新井いじり

「辛いです」に並んで新井貴浩に関する有名な名言が新井の阪神在籍時に生まれた「新井が悪い」です。

もとは、2012年4月11日の阪神対広島戦で内角球に対しブラゼルが激怒した事を機とする乱闘中に生まれた言葉です。
両球団の選手が入り乱れる中、広島ファンの1人が「新井が悪いよ〜新井が」のヤジを入れます。
勿論、新井には何の過失もなかったのですが、この言葉はプロ野球ファンの中で一躍有名になります。

この言葉を放ったのは自体は広島ファンですが、この一件もあり阪神のイジられキャラに定着した、新井貴浩
事あるごとに関係の無い新井のせいにされるのでした。

他にも新井が慕う金本によるイジリなど多くのプロ野球ファンに愛されている新井貴浩なのでした。

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手のひら返しが凄い

阪神ファンは日本一手のひら返しがエグいと言われています。前日まで、ある選手や監督のことを罵倒していたのが、1試合の結果で人が変わったようにその人の事を褒めちぎると言うことが多々あります。主な例を3つあげましょう。

1.和田豊監督への手のひら返し

2014年、阪神は前半戦でなかなか勢いに乗れず監督の和田豊はファンや株主に采配を批判され続けます。

最終的に3位の広島にわずか0.5ゲーム差でリーグ2位でシーズンを終えたもののリーグ優勝を望んでいた阪神ファンは和田監督への批判をやめませんでした。

しかし、阪神クライマックスシリーズのファイナルステージで巨人を4タテし、日本シリーズへの進出を決めると阪神ファンは一斉に手のひらを返し和田監督を絶賛し始めます。
「光の中から現れた短期決戦の鬼」の元ネタとなる有名な一文もサンスポに掲載されました。

最終的にホークスに負け、日本一にはなれませんでしたがこの年の手のひら返しはすごいものでした。

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2.ドラフト1位・近本への手のひら返し

2018年のドラフト1位で近本光司が阪神に指名され、仮契約を済ませますが日刊スポーツにより「足にビビるなよ」(近本は俊足の野手)と報道されると早速ファンにいじられ始めます。
開幕前には牽制死や盗塁死、挙げ句の果てにはアウトカウントの間違いで試合を早く終わらせたこともあり批判は止まりませんでした。

しかし、シーズンが始まると13試合連続ヒットを放つなど活躍。長嶋茂雄の持つセ・リーグ新人記録を更新する159安打を放ち、盗塁王のタイトルも獲得します。
最終的には新人特別賞が贈られました。

阪神ファンはシーズン途中からは開幕前と打って変わって近本を讃頌しました。

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3.ロハス・ジュニアへの手のひら返し

韓国のKBOリーグで2020年に本塁打王打点王の二冠に輝き、2021年に阪神入りしたロハス・ジュニアでしたが、日本での初打席からなかなかヒットが出ず、ジャスティン・ボーアが2019年に記録した18打席連続ノーヒットを更新します。

しかし、つい先日、22打席目にして初安打となる本塁打を放ちます。その後の打席でもヒットを放つと、前日までロハスのことを批判していた阪神ファンは一転して彼を神助っ人扱いし始めたのでした。




他球団ファンから恐れられている

酷いヤジを飛ばすことやマナーが悪いことから他球団のファンから怖がられているというのも阪神ファンあるあるですね。甲子園球場のホーム席で他球団を応援していた他球団ファンが周りからの視線で死ぬ思いをするというのもよく聞く話です。

ヤジが面白い

汚いヤジを吐く阪神ファンもいますが、面白いヤジを飛ばすことに命をかけている阪神ファンもいます。例を挙げると、巨人の阿部慎之助に対して「ABEじゃなくてABCやろ! 中学校から勉強せえ」や、選手のシーツが不調の時に「干すぞ!」といったものがあります。

面白いかはさておき、和田豊監督の不倫相手とのメールが暴露された時の「和田〜、俺にもチュッてしてくれた〜」や「よ!下半身タイガース」などのヤジも話題になりましたね。

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巨人アンチ

阪神ファンといえば巨人アンチが多いことも有名です。巨人のマスコットキャラクターのジャビットはよくその犠牲になっており、たびたびヒモにくくりつけられ阪神ファンによって引き摺り回されます。全く関係ない阪神対西武戦でもジャビットが引き摺られていたという目撃情報も耳にしたことがあります。

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カーネル・サンダースの呪い

1985年10月16日の阪神のリーグ優勝決定時、その立役者となった三冠王のバースに見立て、ケンタッキーのカーネルサンダースの像を興奮した阪神ファン道頓堀川へと投げ込みます。
これ以降阪神の成績が低迷しているという都市伝説がプロ野球ファンの間に広まりました。

それから23年半後の2009年3月10日にサンダース像は発見され、ケンタッキーの日本法人に変換されました。

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踊るおっちゃん

阪神ファンの間で有名なのが、甲子園や他の阪神の試合が行われる球場に現れてオリジナルのダンスを踊る、通称「踊るおっちゃん」です。

僕は下のブラゼルの踊りがめちゃくちゃツボです。


今回はここまでで、後半に続きます。

歴代の二刀流選手紹介前編

エンゼルス大谷翔平が投打に渡って大活躍しています。まさに二刀流の名に相応しい選手と言えるのでしょうか。
今回はそんな二刀流選手のうち、過去に活躍した選手を紹介していきます。

景浦將

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まずはこの人、景浦將。「將」は「将」の旧字体で「まさる」と読みます。

戦前に阪神で活躍した選手で「零代ミスタータイガース」と呼ばれることのある人物。

水島新司の漫画「あぶさん」の主人公、景浦安武のモデルの一人とされています。


立教大学を中退して1936年に阪神に入団。

1936年秋季に歴代2位の記録である.079で最優秀防御率と、勝率10割で最高勝率のタイトルを獲得。
1937年には4番サードとして活躍し、春季には打点王、秋季には首位打者に輝きます。

長いプロ野球の歴史において、首位打者最優秀防御率の両タイトルを獲得した選手は景浦一人だけです

巨人の沢村栄治と名勝負を繰り広げ、「東の沢村、西の景浦」や「職業野球は沢村が投げ、景浦が打って始まった」とも言われました。

1944年に2度目の応召を受け、1945年5月20日にフィリピンで戦死したとされています。

1984年に発行された「日本プロ野球50周年記念切手」の打者のデザインは、公式には発表されて無いものの景浦をモデルにしたもの。
ちなみに、投手のデザインのモデルは沢村栄治でした。


野口二郎

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次に紹介するのは野口4兄弟の次男、野口二郎。野口4兄弟とは上から順に明、二郎、昇、渉の4兄弟の事で全員がプロ入りしている、新井兄弟も顔負けの兄弟です。


法政大学を中退した後、東京セネタースへと入団。
東京セネタースとは、後に合併し大洋軍(横浜とは無関係)となる今は無きプロ野球チームです。

1年目の1939年から2年連続で33勝の大活躍。さらに、1940年には防御率.093で、1941年には防御率.088の成績で最優秀防御率のタイトルを獲得しています。

1942年5月23日の名古屋戦では、二日酔いでの当番にも関わらず、NPB史上最長となる延長28回を344級で完投しました。

1946年の8月29日から10月26日に当時日本記録(現在は3位)となる31試合連続安打を記録し、打者としても球史に名を刻みました。

規定投球回規定打席の両方に到達したシーズンが6回もあるという、大谷翔平も顔負けの二刀流選手となっています。
さらにそのうちの2シーズンは、防御率、打率両方でベスト10入りしていると言うので、驚きです。


関根潤三

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日大三中時代に巨人のエース、沢村栄治から投球を見てもらい、「素質がある」との言葉をもらったといいます。

法政大学卒業後、恩師の藤田省三が監督を務めることになっていた近鉄パールスに投手として入団。

1年目から投手として4勝12敗、打者として.248、4本塁打、21打点の成績を残します。(近鉄は1949年創設のため、負けが先行するのも仕方がない)

1953年には10勝し、投手としてオールスターに出場。

しかし、投手としての限界を悟り1957年に打者に転向。
転向初日から3安打を記録し、この年は主に3番右翼手として試合に出場。最終的に規定打席に到達し、リーグ9位の打率.284を残します。

1959年に野手としては初めてオールスターに出場。
大谷翔平が2013年に野手として、2014年に投手としてオールスターに出場するまで、投手、野手の両方でオールスターに選出されたのは関根が唯一でした。

また、50勝、1000本安打の両方を達成したのは西沢道夫関根潤三の2人だけです。

引退後は広島や巨人でコーチを、大洋とヤクルトでは監督を務めました。

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