たかのプロ野球雑談記

野球が好きな大学生です。野球メインでたまに漫画の話もします。

ノーノーで首位打者?〜初代ミスタードラゴンズ・西沢道夫〜

「10.8決戦」時の中日監督の高木守道や、名球会入りも果たしている立浪和義が、それぞれ2代目、3代目のミスタードラゴンズと呼ばれる一方、初代ミスタードラゴンズと呼ばれたのは西沢道夫です。

西沢道夫とは、1リーグ時代から日本プロ野球で活躍した人物で、後に中日の監督も務めています。今回はそんな西沢選手について紹介していきます。

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https://www.chunichi.co.jp/article_photo/list?article_id=47525&pid=43540

最年少での公式戦登板

1936年12月に15歳で名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)に投手として入団。

年齢不足の為、1年目の1937年は初め練習生として過ごし、同年9月5日に公式戦に出場します。

この時、西沢はなんと16歳!
16歳と4日での公式戦登板は現在も日本プロ野球史上最年少記録となっています。

世界最長イニング数

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1942年5月24日、後楽園球場ではトリプルヘッダーで試合が行われました。

西沢はその3試合目の名古屋対大洋戦に先発。

この「大洋」とは、後の「大洋ホエールズ」、現在の「横浜DeNAベイスターズ」とは関係無く、翌1943年に「西鉄軍」と改称する別のチームとなります。

さらに、この「西鉄軍」も後の「西鉄クリッパーズ」現在の「埼玉西武ライオンズ」とは直接の繋がりはありません。



選手について見ていきましょう。

相手の先発は野口二郎

野口は翼軍時代の1940年と大洋時代の1941年に最優秀防御率のタイトルを獲得しているエース級の選手。
この年には歴代3位のシーズン40勝と歴代1位のシーズン19完封を記録しています。

前日の朝日戦でも9回1アウトまでノーヒットノーランに抑え、結局1安打での完封勝利をした選手です。
試合後は巨人の川上哲治と呑み、二日酔いの状態で名古屋戦に登板したといいます。



名古屋はそんな野口を攻め立て、2回、3回に1点ずつ取ります。
しかし、大洋も6回裏に反撃し、同点に追いつきます。7回裏にも2点奪取し逆転。

このまま、大洋のリードで試合が終了すると思われた9回表、名古屋のキャッチャー、古川清蔵の2ランで試合は振り出しに戻ります。

その後は両軍無得点のまま延長28回まで続き、日没で試合終了。
4-4の引き分けとなりました。

西沢は311球、野口は344球で共に完投!
28イニングは今でも世界最長のイニング数となっています。

1試合が延長無しだと9回までなのでその3倍以上だと思うと、その長さがわかりますね!

試合時間はそれほど長く無く、3時間47分となっています。


ちなみに、この試合で大洋軍の1塁を守ったのが野口二郎の兄である野口明で、彼は明石中との延長25回の試合にも出場しておりアマチュア、プロ両方の公式野球で延長試合の最長を記録した試合に出場した唯一の選手となっています。

応召と復帰・打者転向

1942年7月18日にはノーヒットノーランを達成した西沢でしたが1943年に応召。

1946年に名称が変更していた中部日本軍に復帰しますが、応召中に肩を痛めていたため投手としては戦前ほど活躍できませんでした。

そんなとき、先輩の坪内道典から自身が選手兼監督を務めるゴールドスター(現在の千葉ロッテマリーンズ)に誘われ移籍。

1949年に中日に復帰を要請され、坪内の移籍も懇願し共に復帰。

強打者として大活躍

中日復帰初年の1949年は37本塁打を記録し打者として活躍します。

翌1950年には46本塁打を記録するものの、NPB史上初の50本塁打を達成した松竹ロビンス小鶴誠が最終的に51本塁打を記録した為、本塁打王のタイトルは獲得できませんでした。

この年、小鶴が属した松竹の打線は水爆打線と呼ばれ、小鶴は今でもそれぞれNPB記録となっている、161打点、376塁打、143得点を記録しました。

しかし、この年に西沢が放った5本の満塁本塁打はシーズン満塁本塁打数の日本記録となっています。

打撃タイトルの獲得

1951年、52年、54年は選手兼打撃コーチとしてチームに所属。
1952年には打率.353、98打点で首位打者打点王のタイトルを獲得します。

ノーヒットノーラン首位打者打点王のタイトルの獲得を経験しているのは、長いNPBの歴史において西沢だけでしょう。
打点王を除くと、台湾出身で巨人や阪神に在籍し「人間機関車」と呼ばれた呉昌征も当てはまります。

1954年には再び打撃コーチを兼任。打率.341、16本塁打、80打点の好成績を残し中日の初のリーグ制覇、日本一に貢献しました。

1956年には助監督を兼任。58年には再び打撃コーチを兼任し、この年に現役を引退します。

この時使用していた背番号15は中日初の永久欠番となりました。

引退後

引退後はTBSの解説者などを経て、1963年からは中日のヘッドコーチを務めました。

1964年は中日の優勝が期待されていましたが、開幕の大洋(こちらは今の横浜に繋がる大洋)との三連戦で30失点の3連敗。
6月8日からは杉浦清に代わって監督を務めます。
この年は最下位でしたが、1965年からは監督を退任する1967年まで3年連続で2位となりました。

また、中利夫小川健太郎、2代目ミスタードラゴンズ高木守道らを見出しました。

1977年に野球殿堂入りし、この年に心不全で急逝。

両リーグ打点王は1人だけ!〜プロ野球記録集〜

日本プロ野球史上で1人にしか達成されていない
珍しい記録をクイズ形式で紹介していきます。早速見ていきましょう。


1.NPB史上で唯一両リーグで打点王を達成している選手は誰?
A.山崎武司
B.落合博満
C.タフィ・ローズ
D.中村紀洋







↓に答えあり







B.落合博満

両リーグ本塁打王は3人、両リーグ首位打者は2人それぞれ達成した選手がいますが両リーグ打点王落合博満の1人のみ。
ロッテ時代の1982、85、86年と中日時代の1989、90年にタイトルを獲得しています。

両リーグで本塁打王の獲得経験のあるの3人とは落合博満タフィ・ローズ山崎武司の事で、両リーグで首位打者の獲得経験のある2人とは江藤慎一内川聖一の事です。



2.NPBにおける、通算最多登板の記録を持っている選手は?
A.岩瀬仁紀
B.金田正一
C.五十嵐亮太
D.江夏豊







↓に答えあり





A.岩瀬仁紀

プロ入り1年目の中日での1999年から15年連続で50試合以上に登板。通算では、1002登板を果たします。通算2位は米田哲也の949登板で50登板数以上の開きがあります。



3.NPB史上唯一の同年に本塁打王盗塁王のタイトルを獲得している選手は?
A.秋山幸二
B.松井稼頭央
C.金山次郎
D.山田哲人







↓に答えあり






D.山田哲人

2015年に打率.329、38本塁打、34盗塁でトリプルスリーを達成し、本塁打王盗塁王のタイトルも獲得しました。この両タイトルの同時受賞はこの年の山田が唯一です。

現役生活の中で本塁打王盗塁王の両方を獲得したことのある選手に範囲を広げても、山田哲人の他に選択肢にあった秋山幸二金山次郎の3人だけです。

金山次郎とは1940〜50年代に名古屋軍松竹ロビンスで活躍した選手で、本塁打王を1度、盗塁王を3度獲得しています。



4.NPB史上最多の3球団での最多勝のタイトルを獲得している選手は?
A.涌井秀章
B.工藤公康
C.V.スタルヒン
D.藤井秀悟








↓に答えあり






A.涌井秀章

西武時代の2007、09年に2回、ロッテ時代の2015年と楽天時代の2020年に1回ずつ、最多勝のタイトルを獲得しています。

それぞれの選択肢の選手を見ていきましょう。

まずは現在のホークスの監督、工藤公康選手。
西武、ホークス、巨人、横浜と4球団を渡り歩き、最優秀防御率と最高勝率を4回、最多奪三振を2回獲得している選手ですが、最多勝のタイトルには縁がありませんでした。

V.スタルヒンは1リーグ時代から巨人や大映スターズで活躍し、プロ野球史上最多の6回、最多勝のタイトルを獲得している選手です。

藤井秀悟はヤクルト、巨人、日本ハム、横浜で活躍した選手で最多勝はヤクルト時代に1度獲得しています。



5.最年長猛打賞の日本記録を持つのは、1998年5月16日に44歳5ヶ月で達成した日本ハム落合博満ですが、セ・リーグ記録を持つのは誰?
A.福留孝介
B.山崎武司
C.谷繁元信
D.山本昌







↓に答えあり






C.谷繁元信

監督兼選手として中日に在籍した2015年5月4日の阪神戦で猛打賞を記録し、これが44歳4ヶ月19日での最年長での猛打賞となりました。

山崎武司は44歳6ヶ月の最年長での3塁打の記録を持っています。

山本昌は50歳57日で試合に登板したプロ野球最年長記録を持つ投手ですが、48歳0ヶ月での安打と打点のセ・リーグ記録も保持しています。

現在NPB最年長は、中日の福留孝介。最年長猛打賞の記録が更新されるとしたら、達成するのはこの人ではないでしょうか。



6.5試合連続猛打賞の日本記録を持っている選手は西沢道夫ともう1人は誰?
A.イチロー
B.井口資仁
C.松中信彦
D.西岡剛







↓に答えあり







B.井口資仁

2003年の6月3日のオリックス戦から6月8日の日本ハム戦までで5試合連続の猛打賞を記録。

これまでの1997年のタフィ・ローズや2000年の小笠原道大の4試合連続猛打賞のパ・リーグ記録を更新し、中日の西沢道夫が1954年に記録したプロ野球記録に並びました。

西沢道夫について。
「10.8決戦」時の中日監督の高木守道や、名球会入りも果たしている立浪和義が、それぞれ2代目、3代目のミスタードラゴンズと呼ばれる一方、初代ミスタードラゴンズと呼ばれたのが西沢道夫です。

1リーグ時代から日本プロ野球で活躍した人物で、後に中日の監督も務めています。日本プロ野球史上最年少の16歳と4日で公式戦に出場した記録を持つ選手です。



7.6四球の1試合最多四球の記録を持っている選手は誰?
A.松井秀喜
B.落合博満
C.バレンティン
D.カブレラ






↓に答えあり






B.落合博満

これも答えは落合博満。中日在籍時の落合博満が1991年10月13日の試合で記録。
この年、落合博満とヤクルトの古田敦也首位打者を争っており、古田が落合を僅差でリードして最終戦となる中日対ヤクルト戦を迎えます。
この日の試合で古田は試合に出場せず、落合には全打席故意四球を与え、この記録が生まれることとなりました。
その成果もあり、打率.340で古田は首位打者のタイトルを獲得しました。

中日の名応援歌選集!

今回は中日ドラゴンズの名応援歌を紹介していきます。早速見ていきましょう!!

福留孝介

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【歌詞】

「①すわこそゆけの命に 気迫のフルスイング
凱歌が上がるスタンド バックスクリーンへ」

②彼方の空を見据え 挑め夢のステージ
飛び出せすべて捧げて 扉の向こうへ」


1995年ドラフトで高校生の選手に対しての史上最多の7球団による競合の末、近鉄が交渉権を得るが入団を辞退。
1998年ドラフトで中日を逆指名しプロ入りします。

プロ入り後は日本球界在籍期間に2度の首位打者に輝き、2008年からはメジャーに移籍。

2013年に阪神に移籍し、日本球界復帰。2021年からは再び古巣中日に戻ることとなりました。
2021年現在、NPBの最年長選手となります。

この応援歌は福留が幼少期から憧れている立浪和義の応援歌の流用で、小笠原道大に使われたこともありました。

①は2005年まで、②は2006年から使われた歌詞で、②は福留のメジャー移籍を暗示するような歌詞でした。


落合博満


【歌詞】

「三冠落合 広角打法 レフトへライトへ
ホームラン」


高校時代に7度の野球部の入部と退部を繰り返す。大学を中退し、プロボウラーを目指すなどの異例な経歴の持ち主。
東芝府中を経て、1978年のドラフト3位でロッテに指名されます。

1982年、85年、86年には三冠王を達成。三冠王の3回達成は落合が唯一となる記録です。

後に4選手とのトーレドで中日に移籍。ここでも2度ずつ本塁打王打点王のタイトルを獲得します。両タイトルとも両リーグでの獲得は史上初のことで、打点王に関しては現在でも落合が唯一です。

1993年オフにこの年に誕生したFA権を行使し巨人へ。
移籍後初年度の1994年10月8日には、巨人と中日が同率1位で首位に並び最終戦を迎えた「10.8決戦」の試合がありました。
この日、先制ホームランと勝ち越しのタイムリーを放ち、前年まで居た古巣中日を下し、巨人はリーグ優勝を果たしました。


引退後、2003年10月8日に中日の監督に就任することが発表されます。
奇しくも同じ日付の1994年10月8日は、前述の「10.8決戦」で、その時中日を下した選手が中日の監督を務めることになりました。


井端弘和


【歌詞】

「光の速さで突っ走れ ドラマチックに
ダイヤモンドを駆け抜け 魅せろよ井端」


中学生の時、城南品川リトルシニアに在籍していました。
野村克也の妻、沙知代さんがオーナーを務める港東ムースとの試合をきっかけに、野村克也本人から電話をもらい、その時の助言により、堀越高校に進学しピッチャーから遊撃手に転向することとなります。

中日時代は荒木雅博との二遊間の「アライバコンビ」で名を馳せ、遊撃手として5度のベストナイン、7度のゴールデングラブ賞を獲得しました。

2013年WBCでの3月8日に行われた台湾戦では、9回2アウト1塁、2-3の一点ビハインドの場面で打席に立ちます。1塁ランナー鳥谷敬が盗塁。その後同点のタイムリーを放ちます。
この時の実況・清水俊輔アナウンサーの「鳥谷がスタートしている〜!」や解説の工藤公康の「なんてすごいんだ‥(恍惚)は話題となりました。↓


京田陽太


【歌詞】

「青き大空に 今勝利の華を 輝くその翼で
示せよ京田 オイ! オイ! 京田!
オイ! オイ! そーれ!」


2016年のドラフト2位で中日に指名され、プロ入り。

2017年から1番・遊撃手としてスタメンに定着し、規定打席にも到達。長嶋茂雄の153安打に次ぐ、セ・リーグ新人史上2位の149安打を記録します(阪神の近本光司が2019年に159安打を記録したため、現在は3位)。
この年新人王を獲得し、これは球団では1998年の川上憲伸以来の19年ぶりのことでした。

2019年はUZR(守備の指標)、守備率、刺殺数、補殺数、失策の少なさのいずれも京田が巨人の坂本勇人に勝っていたのにも関わらず、坂本がゴールデングラブ賞に選ばれます。この事はゴールデングラブ賞の投票制度に対する物議を醸すこととなりました。

2020年シーズンからは福田永将の後を継ぎ球団会長に就任します。

井上一樹


【歌詞】

「(前奏)轟々海鳴り響く 戦向かう船の上
ただそのときだけを待つ 
武士(もののふ)が如く 
男一矢放つとき 燃ゆる想い放つ時
悠然と立ち誇る 一樹(いつき)よ
我が人生(みち)の 心(ここ)に在る

(本編①)高く遠くまで飛ばせ みんなの希望をのせて
桜吹雪の道をゆく 一樹 一樹 それ一樹

(本編②)遥か感激の空へ 大きく唸りを上げて
燃える拳に誓い込め 飛ばせ一樹 それ一樹」


鹿児島商業高校時代には投手兼外野手として甲子園に出場。高校通算で40本塁打を記録しているものの、投手としてドラフト2位でプロ入り。

しかし、投手としては良い成績が残せず1993年のシーズン途中から野手に転向します。1998年に就任した水谷実雄打撃コーチの指導により打撃が開花。

1999年には開幕から21試合連続安打を記録するなどし、中日のリーグ制覇に貢献します。2006年から井端弘和に代わり中日の選手会長に就任しました。

現在は阪神タイガースのヘッドコーチを務めます。

応援歌の前奏中の一樹は「いつき」と読みますが、実際の名前は「かずき」です。
2005年までは①の歌詞が使われ、翌年からは②が使われました。


和田一浩


【歌詞】

「勇む力 踊る鼓動 快音を打ち鳴らして
夢奏で 沸かすリズム 刻め一浩」


西武時代、30歳である2002年シーズンに初めて規定打席に到達した、遅咲きの選手。2005年には首位打者最多安打のタイトルを獲得します。

2007年オフにFAで地元の岐阜県から最も近い中日に移籍し、2010年には打率.339、37本塁打、93打点のチーム三冠の成績で中日のリーグ制覇に貢献。

面白いのがこの年(2010年)のシーズンMVPに関してで、和田一浩は当時最年長の38歳でこのタイトルに選ばれます。
パ・リーグMVPは最多勝投手、ホークスの和田毅で両リーグで和田姓がシーズンMVPを獲得することとなりました。

2015年に史上最年長である42歳11ヶ月で通算2000本安打を達成します。


山崎武司


【歌詞】

「乱れる雲を打ち 嵐に向かう男
立ち上がれ山﨑 名古屋の意地だ」


捕手としてプロ入りするも、当時中日には正捕手の中村武志がいました。1989年に一軍初出場しますが、その年の10月15日の広島戦で正田耕三に5盗塁を許してしまい、結果として外野手にコンバートされることになります。

1996年に中日で、2007年に楽天本塁打王に輝いており、両リーグでの本塁打王の獲得は落合博満タフィ・ローズに続く3人目の快挙でした。

また、2007年の39歳での本塁打王打点王の獲得は40歳の門田博光に次ぐ、歴代2位の記録です。

楽天時代にもこの応援歌が使われていました。


渡邉博幸


【歌詞】

「鋭い一振り グラウンドに嵐呼べ
誰にも負けない闘志 この一番で」


2004年には一塁手として中日のリーグ制覇に貢献し、ゴールデングラブ賞を受賞します。

2005年以降は主に守備固めとして起用されました。

現在は、中日ドラゴンズの2軍で内野守備走塁コーチを務めています。


外国人汎用応援歌


【歌詞】

「海を越えて 夢を叶える 勝利掴め
我らと共に ラーラララーラ ラララララーラ
Let's go together Get the victory 」


専用応援歌が作られる前の外国人助っ人選手の応援に使われます。

近年ではアルモンテ選手に使われ、ロッテの石川歩選手が口ずさんだことで有名。

兄弟で打率1位、2位?〜打撃タイトルの珍しい記録集〜

今回は打撃タイトルに関する珍しい記録を紹介していく。是非、最後まで読んで行って貰いたい。では、早速始めよう。


チーム勝率を超える

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2008年、横浜ベイスターズ内川聖一はこの年に初めて規定打席に到達し、打率.378で首位打者のタイトルを獲得。

1999年の同じく横浜のロバート・ローズの打率.369を抜いて、右打者最高打率となった。

また、1951年の巨人の川上哲治の打率.377を抜いて、セ・リーグの日本人選手の最高打率にもなった。

さらに凄いのが、この年の横浜の勝率.338より内川の打率が高かったということ。所属チームの打率を上回ったのは2リーグ制となった1950年以降で、史上初の記録であり、今も他には達成されていない。


ホームラン0本での首位打者

1987年、広島東洋カープ正田耕三は巨人の篠塚利夫と並んで、打率.333で首位打者のタイトルを獲得。

この年の正田の本塁打数は0!「ホームランはヒットの延長」とも言われる為、首位打者を獲得するほどヒットを打っているのに本塁打が一本も出ないというのはかなり珍しい。

実際に、ホームラン0で首位打者のタイトルを獲得したのは2リーグ制以降だと、この年の正田の
1度だけ。

1リーグ時代には1936年秋の名古屋軍の中根之(打率.376)、1944年の近畿日本の岡村俊昭(打率.369)の2人もホームラン0本で首位打者になっている。
しかし、1936年秋は本塁打王本塁打数が2本(藤村富美男など)、1944年は本塁打王本塁打数が3本(金山次郎)だけと、そもそもの本塁打数が少ない時代であった。

首位打者が2人出るというのもかなり珍しく、1969年の永淵洋三と張本勲の.333に次ぐ、2度目の記録で、1987年以降は記録されていない。

ちなみに、翌1988年も正田は首位打者となっているが、その年は3本塁打を放っていた。


 

伯父と甥での首位打者

かつてダイエーホークスや西武に在籍していた、佐々木誠を知っているだろうか?首位打者に1度、盗塁王に2度、当時表彰が無かった最多安打に2度、輝いている強打者である。

ダイエー時代に「核弾頭」、西武時代に「ミサイル弾」、「空爆」などの少々不謹慎な単語を含む応援歌が使われていたことでも有名な選手である。

その甥っ子が2020年に首位打者のタイトルを獲得した、佐野恵太である。佐野恵太の母親の兄が佐々木誠なのだ。

親子や兄弟で首位打者経験のある2人というのはNPBにはおらず、近い親戚での首位打者の2人というのは恐らくこの2人が初だろう。


兄弟での首位打者と2位

1977年にロッテに入団し、一年目から本塁打王打点王のタイトルを獲得したのがレロン・リー。1987年に退団するまでの日本球界での11年間で9度、規定打席に達しての打率3割以上を記録している。

そのレロン・リーが2年目の1978年に日本球界に連れてきたのが、弟のレオン・リー。レオンはロッテ、大洋、ヤクルトで活躍し、いずれの球団でもシーズン30本塁打以上を放つ。

1980年、兄レロンが打率.358、33本塁打、90打点。弟レオンが打率.340、41本塁打、116点と共に大活躍。

レロンが首位打者、レオンが打率2位という、プロ野球史上唯一の兄弟での打率ワンツーフィニッシュだった。


中村剛也、ロッテ選手を抜く

2011年、西武の中村剛也選手は48本塁打、116打点で本塁打王打点王の二冠を獲得する。

驚くことに、この年のロッテのチーム本塁打数は46本。中村1人の本塁打数がロッテ全体の本塁打数を抜いたのであった。

実は、個人の本塁打数が他のチームの本塁打数を超えたことは過去にも2度あった。それは、1954年のことで、西鉄中西太(31本塁打)と毎日の山内一弘(28本塁打)が近鉄の27本塁打を上回ったのであった。

一応ロッテの名誉の為に言っておくと、この年のパ・リーグ全体の本塁打数は454本。中村剛也がリーグ全体の10.57パーセントのホームランを記録しているのである。ロッテがおかしいのではない。中村剛也が凄すぎるのだ。

また、前年の2010年のパ・リーグ全体の本塁打数が742本であることから考えると、この年の本塁打王の少なさと異常さが分かるだろう。

ちなみに、この年のパ・リーグ本塁打数2位がホークスの松田宣浩の25本塁打中村剛也は松田のほぼ2倍のホームランを放っていることになる。

原因として、国際大会に対応する為、2011年から試合で使われる球が低反発な「統一球」となったことによる。この球は翌2012年まで使われ、その間に打撃成績が下がった選手が多くいた。

ホークスの名応援歌紹介

ホークスファン歴20年の筆者によるおすすめのホークス応援歌を紹介します。早速見ていきましょう。

秋山幸二


【歌詞】

「お前の腕を 見せてやれ 
ボールをよく引きつけて 
脇を締めて振り抜けば 
レフトを越えホームラン」


ホークスの監督も務めた秋山幸二

1994年にダイエーに移籍後黄金時代の西部のノウハウをホークスに伝え、常勝ホークス の礎を築きます。

監督時代は現役選手に混ざって柵越えホームランを打ち、ファンを驚かせました。



井口資仁


【歌詞】

「空の彼方へ 夢を乗せて 飛んでゆくボール
打てよ資仁」


ダイエー、メジャー、ロッテと渡り歩いてきたスター選手。

ダイハード打線の一員で、プロ野球史上唯一の100打点カルテットのうちの一人。

ダイエー時代には日本シリーズ制覇を、ホワイトソックスフィリーズ時代にはワールドシリーズ制覇を果たしています。

現在はロッテの監督を務めています。


真砂勇介


【歌詞】

「夜空に羽ばたいた 未来の三冠王 
高く遠く空に輝く星になれ」


「ミギータ」(右打ちの柳田)と呼ばれる未来の三冠王候補。

23歳以下の選手が出場できる2016年のWBSC U-23 ワールドカップでは4本塁打を放ち、MVPに輝きました。

2020年には一軍で50試合に出場し、2021年には開幕一軍入りを果たします。

多村仁志


【歌詞】

「奇跡を起こせ 炎の一打輝く彗星 
多村仁志


横浜在籍時の2004年には123試合のみの出場で打率.305、40本塁打、100打点を、ホークス在籍時の2010年にはいずれもチームトップの打率.324、27本塁打、89打点を記録した強打者。

しかし、非常に故障の多い選手で「野球教室で肩にバックを掛けたままサインに応じ、肩を内出血する」、「写真撮影中にジャンプをし、捻挫する」、「握手会で左掌が炎症を起こす」などプロ野球選手にしては意外なエピソードを持ちます。

2006年WBCでの活躍により、キューバでは人気のある選手で横浜時代にチームメイトだったグリエルは多村を「伝説の人」と語っている。

城島健司


【歌詞】

「凄い若鷹だ どこまでも飛ばす
レフト越えフェンス越え 
スタンドまで飛ばせ」


ホークス、マリナーズ阪神で活躍した打てる捕手。マリナーズ時代には、イチローのチームメイトでした。

2003年には打率.330、34本塁打、119打点という驚異的な成績を残し、ホークスのリーグ制覇と日本一に貢献。自身もシーズンMVPに選ばれます。

引退後は自身の冠番組城島健司のJ的な釣りテレビ」に出演の傍ら、2020年からはソフトバンク球団会長付特別アドバイザーに就任しました。

また、2003年の182安打は、プロ野球歴代捕手のシーズン最多安打となっています。

メジャーにいた事から、ジョージ・マッケンジーと外国人風の愛称で呼ばれ、福岡銀行のCMでもこの愛称が使われていた。


上林誠知


【歌詞】

「叩けボールをミートで 広く打ち分け遠くへ
スピード生かして 目指せホームベースを」


仙台育英高校から2013年にドラフト4位でホークスに入団。憧れているイチローと同じ51番の背番号を付けることになります。

2年目の2015年に1軍初出場を果たし、8月25日のロッテ戦ではイ・デウンからプロ初本塁打となる逆転満塁ホームランを放ちました。

2018年には全試合出場を果たし、打率.270、22本塁打、62打点の成績を残します。
2019、20年は打率1割台と結果を残せませんでしたがまだ若い為今後の活躍に期待できる選手です。


【歌詞】

「その一打で たたみ掛けろ 
それ今叩け力入れ ボールを飛ばせ」


1996年ドラフトで逆指名制度を使い、2位指名でホークスに入団します。
この年のドラフトでは、他に1位で井口資仁、3位で柴原洋、4位で現在はホークスのコーチを務める倉野信次の獲得に成功します。歴代で最も成功したドラフトと言ってもいいでしょう。

4年目の2000年には打率.312、33本塁打、106打点でホークスのリーグ制覇に貢献。自身もシーズンMVPに輝きます。

2004年は打率.358、44本塁打、120打点、で平成唯一の三冠王となり、さらに171安打、出塁率.464で最多安打、最高出塁率のタイトルも獲得し打撃タイトルを独占しました。

内角を捌くのが非常に上手く、「内角掃除大臣」の異名を持ちます。


周東佑京


【歌詞】

「たゆまぬ努力で さぁ時代を築け 
志ひとつに 行けスピードソルジャー」


2019年オフの世界大会、プレミア12 に出場し、オーストラリア戦では1点ビハインドの7回裏ノーアウトから代走として出場します。
2盗、3盗と成功し、源田壮亮のセーフティスクイズで生還。日本は同点に追いつきました。
この大会では最多の4盗塁を記録します。


2020年には10月16日から30日までの13試合連続で盗塁に成功。これが、連続試合盗塁の世界記録となりました。

更にこの年は50盗塁で盗塁王のタイトルを獲得します。育成出身野手の打撃部門タイトルの獲得はプロ野球史上初の快挙となりました。

若井基安(若井ダンス)


【歌詞】

パーフェクトリバティー 突撃若井
つかめ栄冠 燃えろよ若井 
チャンスに強いガッツマン 我等の若井」


PL学園出身で、応援歌の前半部の原曲はPL学園の応援歌「ウィニング」。

高校、大学、社会人、NPBのすべてで日本一を経験している珍しい人物。

この応援歌は現在、ホークスのチャンステーマ、「若井ダンス」として使われています。


森唯斗


【歌詞】

「燃え上がる胸と スタンドの声で 
その腕振り下ろし 輝け唯斗」


実家は漁師でプロ入り時の契約金で漁船をプレゼント。その漁船は両親により「唯斗丸」と名付けられました。

守護神のサファテが不在となった2018年途中からクローザーを務め、9月18日から25日に7連投。7試合連続セーブの日本新記録を達成します。

2020年10月11日には通算100ホールド目を記録。プロ野球史上6人目の「100ホールド・100セーブ」を達成しました。

インチキ!?石原慶幸珍プレー集

2020年に引退した広島のキャッチャー、石原慶幸を知っていますか?打率は高くないものの、時折飛び出す意外性のあるプレーでファンを沸かせる選手でした。その意外性から「インチキ」と呼ばれる事も。これは決して悪い意味ではありません。

今回はそんな石原慶幸選手の興味深いエピソードを紹介していきます。

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https://hochi.news/articles/20200109-OHT1T50161.html

飛ぶキャッチャー

石原は「飛ぶキャッチャー」と呼ばれることがあります。このきっかけとなったのが2006年5月31日の試合です。

ランナーを3塁に置き、石原がスクイズを行おうとする場面。相手投手がピッチアウトした球を打とうとして真横にジャンプしバットにボールを当てようとします。結果は失敗に終わり、3塁を飛び出していた栗原健太はタッチアウトになりました。

しかし、このプレーがファンの間で話題となり石原に「飛ぶキャッチャー」の愛称が付きました。

2007年10月1日の中日戦でも、1アウト2、3塁からスクイズを外され、ジャンプしてバットにボールを当てようとするという、ほぼ同じことが起こりました。


一握の砂

2013年5月7日の横浜戦、横浜の攻撃のランナー1塁の場面でピッチャー久本祐一の投球を石原がこぼしてしまいます。

球を見つけられないものの、足元の砂を掴んで1塁ランナー、石川雄洋を牽制。実際にはボールを掴んでいないものの、その仕草だけで石川の進塁を阻止することに成功したのです。


アウトになったふりをして進塁

2016年7月27日の巨人戦でこの珍プレーは起きます。
5回表、1アウト満塁でバッターの田中広輔はセカンドゴロ。4-6-3とボールが渡りますが、併殺崩れで打者走者の田中は一塁に残ります。
その間に三塁ランナー下水流昂が生還し、広島が1点追加。一塁ランナーの小窪哲也フォースアウト、二塁ランナーの石原慶幸は二塁に戻った為、2アウト1、2塁となります。

ところが、次の打者の菊池涼介がバッターボックスに入った時、ランナーはなんと1、3塁に。何が起こったのでしょうか。

実は、2塁に居た石原がアウトになったふりをして歩いて3塁に。実際にアウトになった小窪は石原か3塁ベースに到達するまで2塁で待ち、石原の3塁到達後にベンチに戻りました。

巨人野手陣は石原がアウトでベンチに戻っていると思い込み、気づいた時には石原は3塁に到達していました。

相手チームだけでなく、解説もこれには困惑。「セカンドランナーがゆっくり3塁に行っていた」という異例の解説も生まれました。


サヨナラデッドボール

2011年5月14日の巨人戦でこの事件は起こります。

9回裏、3-4と巨人がリードの場面でレビ・ロメロが登板します。
しかし、ロメロは投球が定まらず、先頭打者の東出にヒット、廣瀬に送りバントを打たれます。さらに続くトレーシー、栗原、前田智徳に四球を与え、巨人は同点に追いつかれます。

続く丸はセンターフライに打ち取ったものの、ここで打席には石原慶幸
ロメロの初球は石原の左手首を直撃します。石原は倒れ込むも、すぐに立ち上がりガッツポーズ。押し出しサヨナラのデッドボールとなりました。

石原はこの試合で5打数無安打ながらもヒーローインタビューに呼ばれました。


サヨナラ打撃妨害

2006年9月7日の横浜戦。5-5と同点で迎えた10回裏の横浜の攻撃。2アウト満塁で打者は佐伯貴弘

ピッチャー永川の投げた球を佐伯がファウルした際、佐伯のバットが石原のキャッチャーミットに当たります。これが打撃妨害と見做され、押し出しのサヨナラに。

サヨナラ打撃妨害という異例の記録が生まれました。


サヨナラスクイズ

2012年7月17日の中日戦の9回裏。守護神の岩瀬仁紀を攻め立て同点に追い付き、なおも1アウト満塁。

バッターボックスには我らが石原が入ります。ここで石原はピッチャー前にスクイズ。3塁ランナーの堂林が生還し、広島のサヨナラ勝ちとなりました。

セ・リーグでは広島の仁平薫が1994年8月14日に決めて以来18年ぶり、パ・リーグも含めるとロッテの諸積兼司が1996年9月16日に記録して以来16年ぶりのサヨナラスクイズでした。

広島の名応援歌紹介

今日は広島東洋カープの歴代の応援歌のうち、おすすめのものを10選紹介していきます。では、早速見ていきましょう。

新井貴浩


【歌詞】

「赤い心見せ 広島を燃やせ 空を打ち抜く
大アーチ」


まず紹介するのは「広島の応援歌と言ったらこれ!」と言っても過言ではない、新井貴浩の応援歌です。


駒澤大学の先輩である野村謙二郎の推薦もあり、1998年にドラフト6位で広島に入団します。


2005年には自身の慕う金本知憲に3本差を付け、43本塁打本塁打王のタイトルを獲得しました。


2007年オフに阪神に移籍しますが、2015年から広島に復帰、この応援歌も再び使われることになります。


2016年は広島の25年ぶりのリーグ制覇に貢献、自身も2000本安打、300本塁打を達成、シーズンMVPを獲得するなど本人いわく、「夢のようなシーズン」であったそうです。


鈴木誠也


【歌詞】

「誠の道進み チームに流れを呼べ
荒川から架けろ 夢の赤い橋」


2016年のオリックス戦で2試合連続でサヨナラ本塁打を放ち、緒方監督が「神ってる」と発言。これが流行り、この年の新語・流行語大賞に選ばれました。


2015年から5年連続で、打率3割、25本塁打以上を達成しており、2019年には初のタイトルとなる首位打者に輝きました。


また、この年オフの世界大会、プレミア12に出場し日本の4番を務めます。3試合連続本塁打を打つなど活躍し、日本の世界一に貢献。打率.444、3本塁打、13打点で大会MVPにも選ばれました。

菊池涼介


【歌詞】

「(前奏)始まりの鐘が鳴る 広島伝説
(本編)光を追い越して 
メーター振り切り駆け抜けろ 止まらないぜ
韋駄天菊池」


守備の名手として知られ、二塁手として最多の8度のゴールデングラブ賞に輝いています。さらに、2020年には二塁手として初のシーズン守備率10割を達成しました。


打撃に関しても、シーズン7度、6年連続のいずれも日本記録の最多犠打を記録しています。また、2016年には最多安打のタイトルも獲得、田中広輔丸佳浩との「タナ・キク・マル」トリオとしてチームに貢献しました。


2016年のシーズン終盤に菊池が慕い、後述する廣瀬純が引退すると、彼の応援歌が菊池の応援歌の前奏として新たに加えられました。


彼の守備は世界大会でも健在で2017年のWBCでは、その守備で世界を驚かせました。↓


廣瀬純


【歌詞】

「(前奏)始まりの鐘が鳴る 広島伝説
(本編)豪快に放て 勝利に向けて走れ
始まりの鐘が鳴る 広島伝説」


2013年4月21日から4月26日までに15打席連続で出塁し、連続出塁のプロ野球記録を更新します。この間の打席での記録は8安打、4四球、3死球というものでした。


広島一筋で16年間プレーした選手で、2016年の10月1日の試合は廣瀬の引退試合とされました。


モミアゲが長かったことから「チャーリー」の愛称で呼ばれていました(広島ではモミアゲの事をチャリと呼ぶ)。現在は広島の外野守備・走塁コーチを務めます。


緒方孝市


【歌詞】

「この一打に 闘志燃やして 勝利の地へ 
駆け抜けろ」


1995年の9月20日から10月8日までで10試合連続盗塁のセ・リーグ記録を残します。さらにこの年から1997年まで3年連続で盗塁王のタイトルを獲得します。


現役引退後、2015年から2019年には広島の監督を務め、2016年から3年連続で広島をリーグ優勝に導きました。


巨人に在籍し、現在ヤクルトのコーチを務める緒方耕一とは外野手、同級生、盗塁王、九州出身などの共通点が多いものの別人です。


応援歌の前奏には必殺仕事人の音楽が使われています。


前田智徳


【歌詞】

「狙いしぼって振り抜け 速く鋭い打球を 
飛ばせ明日へ未来へ 輝け前田」


「孤高の天才打者」と呼ばれ、イチロー落合博満が認めるほどの才能を持つ打者。打撃タイトルを獲得することはなかったものの、規定到達の上で打率3割以上を11度、通算打率.302を記録します。


印象的なエピソードとして、自身のミスでランニングホームランを許してしまい、北別府の勝ちを消してしまったことで、その後に自身がホームランを打ちヒーローに選ばれるものの「ミスした人間がヒーローに選ばれるのはおかしい」と言って断った、というものがあります。


2007年に2000本安打を達成し、名球会入りをしています。


田中広輔


【歌詞】

「赤く燃え上がる 夢見たこの世界で 
研ぎ澄ませそのセンス 打てよ広輔」

東海大相模高校、東海大学時代には巨人の菅野智之と同期であった。JR東日本を経て、2013年ドラフト3巡目で広島に指名されプロ入りを果たします。


2014年4月24日に放ったプロ初本塁打となる飛球がリプレー検証を受け、同年5月26日の2本目の本塁打となる飛球が相手監督の抗議を受けるという珍しいエピソードの持ち主。いずれも検証の結果、本塁打となりました。


2017年には盗塁王と最高出塁率のタイトルを獲得しており、この両タイトルを同時に獲得したのはイチロー山田哲人に次ぐ3人目の記録でした。


2020年オフに巨人から横浜に在籍した田中俊太は実弟。2019年3月29日の広島対巨人の開幕戦で初めてスタメンとしての同時出場を果たします。また、同年5月10日には広輔が横浜戦で、俊太がヤクルト戦でホームランを放ち、「NPBで別々の球団に所属する兄弟選手による同日開催の一軍公式戦でのアベック本塁打」という珍しい記録を残します。


松山竜平


【歌詞】

「闘志を燃やし 鋭く振り抜け 
さぁかっ飛ばせ さぁ打ちまくれ 
我等の松山」


愛称は「アンパンマン」で、これは大学3年の時に先輩から付けられたもの。登場曲には「アンパンマンのマーチ」や「アンパンマンたいそう」が使われた事も。


入団4年目の2011年から活躍し始め、2012年からは4番を務める事もありました。2018年には規定打席に到達し、打率.302、ops.834の好成績を残しました。


ヒーローインタビューでは「鹿児島のじいちゃんばあちゃん、今日俺やったよ!」と叫ぶのが定番となっていますが、同伴した他の選手に先を越されることもしばしば。


石原慶幸


【歌詞】

「南の夜空に赤く 輝くいちばん星 広島に優勝(ゆめ)を運ぶ 石原慶幸


石原は「飛ぶキャッチャー」と呼ばれることがありますが、このきっかけとなったのが2006年5月31日の試合です。
ランナーを3塁に置き、石原がスクイズを行おうとする場面。相手投手がピッチアウトした球を打とうとして真横にジャンプしバットにボールを当てようとします。結果は失敗に終わり、3塁を飛び出していた栗原健太はタッチアウトになりました。


「一握の砂」事件と呼ばれるエピソードもあります。
2013年5月7日の横浜戦、横浜の攻撃のランナー1塁の場面でピッチャー久本祐一の投球を石原がこぼしてしまいます。球を見つけられないものの、足元の砂を掴んで1塁ランナー、石川雄洋を牽制。実際にはボールを掴んでいないものの、その仕草だけで石川の進塁を阻止することに成功したのです。


他にも、「アウトになったふりをして進塁」、「サヨナラデッドボール」など様々なエピソードを残している選手です。


2016年には自身初のゴールデングラブ賞ベストナインに選ばれ、応援歌の歌詞にもある通り、「広島に優勝(ゆめ)を運ぶ」こととなりました。


東出輝裕


【歌詞】

「夢熱く燃やせ 心弾ませて 緑の芝生を
走れ東出」


1999年のドラフト1位で広島に入団した選手。入団後は二塁手や遊撃手として活躍し、2008年、2009年には二塁手としてベストナインに選ばれます。

ホームランが非常に少ない選手で、2005年の7月17日から2010年4月23日まで2393打席連続でホームランが出ませんでした。これは、赤星憲広の2528打席、岡田幸文の2501打席に次ぐ、プロ野球歴代3位の連続打席無本塁打の記録となります。

2013年から2015年まで日本プロ野球選手会の理事長を務めていました。

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