「10.8決戦」時の中日監督の高木守道や、名球会入りも果たしている立浪和義が、それぞれ2代目、3代目のミスタードラゴンズと呼ばれる一方、初代ミスタードラゴンズと呼ばれたのは西沢道夫です。
西沢道夫とは、1リーグ時代から日本プロ野球で活躍した人物で、後に中日の監督も務めています。今回はそんな西沢選手について紹介していきます。
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最年少での公式戦登板
1936年12月に15歳で名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)に投手として入団。
年齢不足の為、1年目の1937年は初め練習生として過ごし、同年9月5日に公式戦に出場します。
この時、西沢はなんと16歳!
16歳と4日での公式戦登板は現在も日本プロ野球史上最年少記録となっています。
世界最長イニング数
1942年5月24日、後楽園球場ではトリプルヘッダーで試合が行われました。
西沢はその3試合目の名古屋対大洋戦に先発。
この「大洋」とは、後の「大洋ホエールズ」、現在の「横浜DeNAベイスターズ」とは関係無く、翌1943年に「西鉄軍」と改称する別のチームとなります。
さらに、この「西鉄軍」も後の「西鉄クリッパーズ」現在の「埼玉西武ライオンズ」とは直接の繋がりはありません。
選手について見ていきましょう。
相手の先発は野口二郎。
野口は翼軍時代の1940年と大洋時代の1941年に最優秀防御率のタイトルを獲得しているエース級の選手。
この年には歴代3位のシーズン40勝と歴代1位のシーズン19完封を記録しています。
前日の朝日戦でも9回1アウトまでノーヒットノーランに抑え、結局1安打での完封勝利をした選手です。
試合後は巨人の川上哲治と呑み、二日酔いの状態で名古屋戦に登板したといいます。
名古屋はそんな野口を攻め立て、2回、3回に1点ずつ取ります。
しかし、大洋も6回裏に反撃し、同点に追いつきます。7回裏にも2点奪取し逆転。
このまま、大洋のリードで試合が終了すると思われた9回表、名古屋のキャッチャー、古川清蔵の2ランで試合は振り出しに戻ります。
その後は両軍無得点のまま延長28回まで続き、日没で試合終了。
4-4の引き分けとなりました。
西沢は311球、野口は344球で共に完投!
28イニングは今でも世界最長のイニング数となっています。
1試合が延長無しだと9回までなのでその3倍以上だと思うと、その長さがわかりますね!
試合時間はそれほど長く無く、3時間47分となっています。
ちなみに、この試合で大洋軍の1塁を守ったのが野口二郎の兄である野口明で、彼は明石中との延長25回の試合にも出場しておりアマチュア、プロ両方の公式野球で延長試合の最長を記録した試合に出場した唯一の選手となっています。
応召と復帰・打者転向
1942年7月18日にはノーヒットノーランを達成した西沢でしたが1943年に応召。
1946年に名称が変更していた中部日本軍に復帰しますが、応召中に肩を痛めていたため投手としては戦前ほど活躍できませんでした。
そんなとき、先輩の坪内道典から自身が選手兼監督を務めるゴールドスター(現在の千葉ロッテマリーンズ)に誘われ移籍。
1949年に中日に復帰を要請され、坪内の移籍も懇願し共に復帰。
強打者として大活躍
中日復帰初年の1949年は37本塁打を記録し打者として活躍します。
翌1950年には46本塁打を記録するものの、NPB史上初の50本塁打を達成した松竹ロビンスの小鶴誠が最終的に51本塁打を記録した為、本塁打王のタイトルは獲得できませんでした。
この年、小鶴が属した松竹の打線は水爆打線と呼ばれ、小鶴は今でもそれぞれNPB記録となっている、161打点、376塁打、143得点を記録しました。
打撃タイトルの獲得
1951年、52年、54年は選手兼打撃コーチとしてチームに所属。
1952年には打率.353、98打点で首位打者と打点王のタイトルを獲得します。
ノーヒットノーランと首位打者、打点王のタイトルの獲得を経験しているのは、長いNPBの歴史において西沢だけでしょう。
打点王を除くと、台湾出身で巨人や阪神に在籍し「人間機関車」と呼ばれた呉昌征も当てはまります。
1954年には再び打撃コーチを兼任。打率.341、16本塁打、80打点の好成績を残し中日の初のリーグ制覇、日本一に貢献しました。
1956年には助監督を兼任。58年には再び打撃コーチを兼任し、この年に現役を引退します。
この時使用していた背番号15は中日初の永久欠番となりました。