今回は打撃タイトルに関する珍しい記録を紹介していく。是非、最後まで読んで行って貰いたい。では、早速始めよう。
チーム勝率を超える
2008年、横浜ベイスターズの内川聖一はこの年に初めて規定打席に到達し、打率.378で首位打者のタイトルを獲得。
1999年の同じく横浜のロバート・ローズの打率.369を抜いて、右打者最高打率となった。
また、1951年の巨人の川上哲治の打率.377を抜いて、セ・リーグの日本人選手の最高打率にもなった。
さらに凄いのが、この年の横浜の勝率.338より内川の打率が高かったということ。所属チームの打率を上回ったのは2リーグ制となった1950年以降で、史上初の記録であり、今も他には達成されていない。
ホームラン0本での首位打者
1987年、広島東洋カープの正田耕三は巨人の篠塚利夫と並んで、打率.333で首位打者のタイトルを獲得。
この年の正田の本塁打数は0!「ホームランはヒットの延長」とも言われる為、首位打者を獲得するほどヒットを打っているのに本塁打が一本も出ないというのはかなり珍しい。
実際に、ホームラン0で首位打者のタイトルを獲得したのは2リーグ制以降だと、この年の正田の
1度だけ。
1リーグ時代には1936年秋の名古屋軍の中根之(打率.376)、1944年の近畿日本の岡村俊昭(打率.369)の2人もホームラン0本で首位打者になっている。
しかし、1936年秋は本塁打王の本塁打数が2本(藤村富美男など)、1944年は本塁打王の本塁打数が3本(金山次郎)だけと、そもそもの本塁打数が少ない時代であった。
首位打者が2人出るというのもかなり珍しく、1969年の永淵洋三と張本勲の.333に次ぐ、2度目の記録で、1987年以降は記録されていない。
ちなみに、翌1988年も正田は首位打者となっているが、その年は3本塁打を放っていた。
兄弟での首位打者と2位
1977年にロッテに入団し、一年目から本塁打王、打点王のタイトルを獲得したのがレロン・リー。1987年に退団するまでの日本球界での11年間で9度、規定打席に達しての打率3割以上を記録している。
そのレロン・リーが2年目の1978年に日本球界に連れてきたのが、弟のレオン・リー。レオンはロッテ、大洋、ヤクルトで活躍し、いずれの球団でもシーズン30本塁打以上を放つ。
中村剛也、ロッテ選手を抜く
2011年、西武の中村剛也選手は48本塁打、116打点で本塁打王、打点王の二冠を獲得する。
驚くことに、この年のロッテのチーム本塁打数は46本。中村1人の本塁打数がロッテ全体の本塁打数を抜いたのであった。
実は、個人の本塁打数が他のチームの本塁打数を超えたことは過去にも2度あった。それは、1954年のことで、西鉄の中西太(31本塁打)と毎日の山内一弘(28本塁打)が近鉄の27本塁打を上回ったのであった。
一応ロッテの名誉の為に言っておくと、この年のパ・リーグ全体の本塁打数は454本。中村剛也がリーグ全体の10.57パーセントのホームランを記録しているのである。ロッテがおかしいのではない。中村剛也が凄すぎるのだ。
また、前年の2010年のパ・リーグ全体の本塁打数が742本であることから考えると、この年の本塁打王の少なさと異常さが分かるだろう。
ちなみに、この年のパ・リーグの本塁打数2位がホークスの松田宣浩の25本塁打。中村剛也は松田のほぼ2倍のホームランを放っていることになる。
原因として、国際大会に対応する為、2011年から試合で使われる球が低反発な「統一球」となったことによる。この球は翌2012年まで使われ、その間に打撃成績が下がった選手が多くいた。